2017.Aug.8 Posted
Foster The People『Sacred Hearts Club』
すっかり放置してしまいました。久々すぎてこんな風に「ですます調」で書いていたかどうかすらもよく思い出せませんが、なんか一回改まった感もあるのでこのまましばらくですますします。
最近たまたま見つけたニュース記事で「35歳で新しい音楽への扉が閉じる」というのを目にしまして。記事によると数年前のアメリカでの実験の結果によるものらしいですが、まあなんとなく周囲を見ていたりすると(そうなのかなぁ)なんて思ったりする瞬間はこれまでも多々ありました。なので特別驚きはしませんでしたが、やはりそうかと。今この瞬間、これを読んでいるあなたが「まだまだいける」と思っているのか、はたまた焦りを感じているのか、落胆しているのか知ることができませんが、ひとつだけ言えることがあるとするならば、僕に関してはあと3年強の猶予がある、ということくらいでしょうか。ははは。いや、そこは精一杯抗うつもりです。
20歳のときに聴いていた音楽は、それ以降の人生でもずっと好きでいる。もし、35歳以降に新しいジャンルの音楽が現れたら95%の人はそれを受け入れることができない。
舌にピアスをつけるというような新しいファッションへの扉が閉じるのは23歳、新しい味を受け入れることができるのは39歳まで。
(引用元:http://kyouki.hatenablog.com/entry/2014/02/07/075410)
改めて検索してみると、こういうことのようです。新しいファッションへの扉が23歳で閉じる、というのはなかなか衝撃ですね。早すぎ。
人の好みとか価値観は思い出9割だと思っているので、二十歳の頃に聴いていた音楽は一生好きっていうのはよく理解できます。なので、まだ間に合う人はできるだけ二十歳までにたくさん音楽を聴くこと。一生を支えてくれる仲間が多いに超したことはないと思います。
さて、これまでの話と少し矛盾する話をします。「リバイバル」の存在について、です。ポピュラー音楽やファッションの話ですが、ここ数年の80年代リバイバルがようやく落ち着いて、次のトレンドは90年代だ、なんて各所で盛り上がり始めています。90年代というのは僕にとって物心ついて初めてのディケイドなので、そもそも90年代にトレンドもクソもあったかよ、といささか懐疑的だったのですが、NIKEエアマックス95を始め当時のハイテクスニーカーが続々復刻して再びブームになっているのを横目で見ていると、ああ確かに、これがリバイバルかと。でも当時もそういったハイテクモノに僕はあまり興味がなかったので相変わらず食指は動かないわけですが。
じゃあ、ことポピュラー音楽に関しては?
個人的な感覚としては、80年代に比べると圧倒的に90年代の技術(プレイにおいても、レコーディングにおいても)というのは現代に通用するレベルに達していると思っていて、そもそもリバイバルが起こるほど大きな変化なんて起こっていないし、将来的にも起こらないんじゃないか。いやだって、スネアドラムに無条件にくっついてきたゲートリバーブとか、オケヒとか、DX7とか、デジタルに憧れながら最終的にはまだ技術が未完成だったためにアナログで解決しなきゃいけなくて膨大な時間とか労力を費やす羽目になってしまったこととか、「ちょっとくすぐった目な代名詞」的なモノの存在が90年代にはほとんどない。あったのかもしれないけれど、おそらくそれはサイズがデカい、とか、値段が高い、とか、時間がかかった、とかそういうもので、技術的にはほぼ完成されていたんだと思います。もっというとゼロ年代とか10年代なんて日々リバイバルや焼き直しの応酬で新しいものなんてほぼありません。「なんか寂しい」時代に生まれてしまったよなあ、とペシミスティックな気分に浸ることもしばしば。
そんな中、Foster The Peopleの新譜ですよ。開けてびっくり、これがね、もう笑っちゃうほど90年代。。。正しく90’s!ナインティーズ!!!
あんなに「おこるわけない」と思っていたポピュラー音楽における90’sリバイバルがそこに姿を現してしまったのです。
TLCとかボビーブラウンとか、90年代R&B的なアプローチの前半部分は良い意味でかなりくすぐったい。後半の「Loyal Like Syd & Nancy」なんてアンダーワールドとかダフトパンク「Homework」辺りを彷彿とさせるし。
元々トレンドをそうやってエンターテインに昇華する能力の高いグループではありますが、なにより僕が今回のフォスターすごいなあと思ったのは、90年代のちょっと陰湿な空気感までもリバイバルさせたんじゃないかと感じさせるところ。彼らの過去二作に比べると圧倒的に「なんか冷たい」し「なんか暗い」んですよ。きっとそこに至るまでには色んな理由があるとは思うんですけど、僕はこれ結構わざとやってるんじゃないかなと思うんですね。技術的な完成をむかえて「なんか寂しい」ってことがそのまま形になっていたのがある種の「90年代感」だったとしたら、2017年現在、テクノロジーの進化が飽和して、リバイバルで一発当てようみたいな空気も1周して、ちょっと疲れちゃったよね俺たちっていう気分が音楽的に反映される感じってものすごく合点がいくな、と。ちょっと偏屈かもしれないけど個人的にはそこに「90年代を知っていて良かった」という安心感があったんです。そんなの初めて。
「なんか寂しい」ことへのコンプレックスとか、ダサいよなって思っていた気持ちすら肯定できてしまうことがやはり「リバイバル」の真の価値なんですね。そのロジックで「リバイバル」が起こると、その寸前の「リバイバル」は当然飽和するしダサくなる。でもその気持ちは時をおいて再び「リバイバル」することによって肯定される。
あれ。だとしたら、本当に音楽やファッションは早々とその扉を閉ざしてしまうことになるのでしょうか?
抗うロジックをひとつ手に入れたような、手に入れていないような、、、。
追記:
今年もフジロック行ってきました。
いろいろ観ましたが、ファザージョンミスティとCHAIが最高でした。特にCHAIは↑みたいなことを考えていることが恥ずかしくなるくらいぶっ飛ばしててもう本当に最高だった。